etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

何でもいいや

ホルモンバランスか知らないけど、月のどこかでとても前向きに、楽観的になるタイミングか来る。

普通の生活ができなくても、社会に合わせられなくても、精神が不安定でも、何か、まぁいいか。今はそれで暮らせる環境が与えられているから。

いつかその環境がなくなるとしても、その時考えればよいから大丈夫。

今の環境も、私の努力によるものではなくて、神によって与えられたものだから。
私が今できることをできるようにやれば大丈夫。
今の環境を変えるのも神で、それは私にとって必要なように変えられているから、どんな状況になっても大丈夫。

それは、人として楽な場所や、成功したと言われる場所じゃなくても、素晴らしいと言われる場所じゃなくても、例え牢獄の中だとしても、私にとって必要な場所なら大丈夫。

私は自分でも自覚があるように、私だけでは罪に汚れてしまっていて、無価値だけど、
その中でも神は私を気にかけている。神が私に生きる意味を与えている。

なんだか今日は、私に生きる価値がないことをスッキリ認められた日。
気を張らなくて良いのだ。いつか奪われるかもしれないと、自分の努力で守ろうとしなくて良いんだ、と素直に受け入れられた日。

だから何でも良い。どんなことでも、その時は悲しくてショックで、良かったとしても、本当はなんだって、どうだっていい。

神が作った人が、同じ人である私をコントロールできないはずだから。

掃き溜めのような私に、神は息子であるイエスさえ、私にあわせてくれた。

神は上から目線で、私たちが無価値なものであることを知っているが、一方で、その目線は、とても低くて愛がある。
だから、私はその目線を遮らない。上から目線に怖くなっても、その中には愛があることも知っているから。

不思議な存在の神。

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親の気持ちは子供にはわからない

親の心、子知らずとか
親の心配や想いや頑張りを子供は気づかないまま大人になって、いつか大人になった時にその大切さに気づく、とか

いわれるけど、
親の心がわからないから、子供は傷ついて歪んでいくこともある。
けど、親は親の気持ちは伝わっていると思い込んでいたりする。

その言い方ややり方は、間違っているよ、とまでは言えないけど、
その言い方は勘違いされやすいからやめた方がいい、と思うことはある。

人は完璧ではないし、年とったからと言って、親になったからと言って、完璧ではないし、
家族という繋がりは、本当に良いのかと疑問に思うほどいびつな人間関係だ。

家族ほど気を付けないといけないんじゃないかと思う。
夫婦ならまだなんとかなってても、子供はまた、別の生き物だし。
夫婦も、気を付けないと、また分からなくなる。

昔は、もっとおおらかに、そんなこと気にするほどのことじゃないくらい、家族の間に距離があったのかな?
もしくは、このすれ違いや思い込み、刷り込みが問題視されてなかっただけかな?

なんで家族なんていう不確かなシステムを神は作ったのだろう。
神様が完璧だと思ってるから、そのシステムに批判とか不満とかないけど、
でもどんな目的なんだろうなって、ずっと、子供の時から考えている。

わたし達にその意図は知らされないけど。

なぜ家族を持ちたいという欲求をひとはもつんだろう。

今日も寒い

冬が来る。冬は好きじゃない。部屋か寒くて緊張する。
アパートだと温まらないしね。

夏も大変だ。

一番良いのは短い春と秋。

でも、そんなに辛いと思わない。
なんだか、まぁ、いいか、と思う。

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寝不足になると漠然とした不安を忘れられるから

我ながら不器用な暮らし方だなともう。

スマホを弄れば余計に寝づらくなることはわかっているが、胸がざわざわするのはブログを書けば収まる気がして書き込んでいる。

ずっとスマホの入力方法に慣れないだろうかと思っていたが、今ではあんまり気にならない。


夜になると不安になる。
起きてもいないことを思って不安になること程馬鹿げていることはないと思う。

でも、いつも不安になる。
仕事がなくなったら?
愛するパートナーを明日突然失ったら?
何を目的に生きていけば良い?
両親に何かあったら?
なんて不安が、ぐるぐるぐるぐる。

そうでなくても、漠然として胸のざわめきに落ち着かなくて、苦しくて、虚しくて
ずっと好きなビデオを眠たくなるまで見ている。

結婚すれば、こどもがいれば、そんなこと考えなくて住むのか。
会社に就職したら、そんなこと考えないのか。
と一瞬考えるけど、完全にそれは甘い考えで、そんなことで家族を持ったり、会社勤めをしても、上手くいかないですよ。
家族はさみしさを埋めるために作るものではないから。
それに、私みたいな人格破綻と結婚したら、相手も子供も生きていけない。

そんな不幸に誰が巻き込むか。絶対に嫌だ。

安定を目的に会社勤めなんて、見当違いもいいところだ。今じゃどうなるかわからないし、自立した目的は、自分が納得できる仕事を選んで、そのために力を注ぎたいからだ。
当初の目的を忘れてはいけない。

それなのに、夜、眠りにつく前は、不安になる。
わかっていても、やっぱり、今の生き方にストレスや不安を感じているんだ、と思う。

でも、これは、誰にも扱えないからね。
自分自身でコロコロ持て余しながら見守って耐えて放っておいたりしながら、折り合い付けるしかない。

聖書には、すべてのことには時がある、と伝道者の書あたりにかいてある。
始まるにも、終わるにも、全て時があるのだ。
何かが起こっても、別に驚いたり落ち込んだりする必要はなくて、なるべくしてなったのだから、そうなのだ。
わたしがわるいわけでもなく、世間や彼が悪いでもなく、時であっただけで、
それは人の価値観で当てはめて考えたら、ついてない日だったかもしれない。それだけで。

聖書では信仰をを持てば、あなたは不幸にもならないし、失敗もしないし、悩まない、なんて書いていない。
が、不幸や失敗や悩みを、今までの価値観で捉えて執着しないで、神の新たに与えた考え方で捉える訓練をしなさい。ぐらいは書いてあると思うを
その考え方によって、人間らしい価値観で、不安になったり落ち込んだりしなくなる、ということだ。

私の悩みも、悩みではないのだけどね。
訓練だよな。

私な与えたのも創造主、私から奪う権利があるのも創造主。創造主は、私や誰かほかの人間の価値判断によらない、最善の道を知っている。
私はそれがそうであると信じ、私ができる最善を尽くす。

ねむいな

私がブログを書きたくなるとき 自分の愚かさを知るとき

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

 

ブログを書きたくなるときは、自分の愚かさを知るとき。

 

そんな程度ですごいことやっているつもりなのか。

と腹が立ってみても

私はその領域のプロであったとしても、

私はそれを全て知っているか?

 

ついこの前まで知らなかったこともあったじゃないか。

私より知っている人なんかたくさんいるじゃないか。

 

すぐ、誰かを批判する。

誰かの姿勢を批判する。

私にその権利はない。

嫌だな、と思う立場でもない。

 

彼も、彼女も、私と同じ学ぶ身なのだ。

私がもし彼らより知ることがあるとしたら、それはただ、教えれば良いだけで、

間違いや知識不足は彼らだけでなく私にも言えることなのだ。

彼らが間違っていることで、どうして私は彼らを批判できるのだろう。

 

 

無礼とか、言葉遣いが間違っているとか、不遜な態度とか、何でも良いじゃないか。

 

なんでここに引っかかるのかな、と考えると、

父や祖父母、父方の家族の影響だ。私がこれらのことできつく躾けられたからだ。

その躾けが間違ってたかどうか、教えられた内容は間違っていないと思うが、おしえかたは行き過ぎていたところはあったと思う。

 

私は、それができないことによって「社会に出た時に恥をかくのはお前だ。しっかりしておかないでどうする。相手にされなくなるのだぞ」と再三言われた。それができないことによって「お前はまだダメだ」ということをひたすら刷り込まれた。

実際は「お前はダメだ」ということを言いたかったのではない。実際、父の時代や、父方の家族の地域での立ち位置から、そうしなければ辛い思いをすることがたくさんあったのだ。

だからそれで傷ついたりいじめられたり、不当な扱いを受けるかもしれない私を心配して、きつく、きつく躾けられたのだ。

でも、私には、違うメッセージで刷り込まれてしまった。(意図しない内容で伝わってしまうことは、子育てに関わらず人間関係で難しいことだと思う。)

だから、父や父方の家族にきつく言われ続けてきた「ダメなこと、やっちゃいけないこと」をしている他人を見ると

「それは違うだろ。それをしちゃダメだろ。そんなことで良いと思ってるのか。甘えるな」という気持ちになってくるのだ。

でも、ほんとは、私がそれが好きなら守ればよくて、他人に守らせることではないのだ。

彼らは違う育ち方をした。私の家庭は厳しかった。でもだからといって、私の方が優れている、という訳でもないのだ。相手が可哀想な人でもないし、私が頭がおかしい人なのでもない。

 

私は何でも良いのだ。彼らも何でも良いのだ。

私が彼らと話すことができる共通の言語や認識、価値観を持つこと。

もしあるとしたら、私個人でしてほしいこと、してほしくないことを彼らに頼むこと、会話をすることだ。

「あいつらわかってないのか。」と怒ることはちっとも必要ないはずなんだ。

 

一生安心出来ない

私はなにかしてやったぞ!なにかをのこしたぞ!

とか一生思えない。
足りないことは一番自分が良く分かる。
恥を知れ。

なんで自分を罵るのかな。

根拠なく自分を誇れなくても、罵らなくていいのにね。
批判しないと安心出来ないのかね。
自分より強いから吠えるのかな。
私が思う私は、本当は強いから、私は罵るのかな。
強いから、自分なんかかなわないんじゃないかって、怖いのかな。

そうだと良いな。
私は私が怖い。なにか力をひめてそうで、私よりできそうで、嫉妬する。

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簡単に得られる承認

錯覚ですが、自分が投稿したレポートや写真にいいね、がつくと、自分が認められているような、役に立ってるような気分にお手軽になれる。

そしてそれに依存していくんだな。

たいしたことしてないのにね。
って思っちゃう私だから依存していくのだな。

そんな評価をもらって当たり前だ。なにせ、一生懸命やりましたもの。
なんてことも言えない。
何が理由で見てもらえたかなんて、わかんないからね。
私の写真や文字じゃなくてもよんださ。

でもそれで良いじゃない。大したことしてないけど、誰かが喜んだなら良いじゃない?
私も楽しかったかな。
それでよいじゃない