etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

時々くるやる気のない日

なんだか調子の良いなーと思った数日後、突然やる気の出ない日が来る。数日間続く。改善したいなと思うけど。

 

改善なんかしなくて良いのかもしれない。本当に外にも出たくないほど、誰とも話したくないほど疲れてるだけで、そんなときは何かを考えたり、何か建設的なことをしようとか、思わなくて良いのかもしれない。

そういうことをしようとしても、そもそも頭が働かないのだから、うまくできない。

それでうまくできない自分に腹がたつ。

そして結局休めない。

 

休むことに集中する。

神様はいるのか、宗教、信仰とは

私は現在、聖書を信じている。

日本聖書刊行会で出版されている聖書を読んで、信仰をもつ、という判断をした。

しかし、キリスト教には属していない。教会にも通わない。

教会に通って、誰かと話す、という方法が生理的に無理だからだ。

聖書に基づいた信仰を持つと自負する、様々な人とはなしてみて、

私と解釈の近い人と一緒に読みつづけている。

 

タイトル通り、神はいるのか、宗教とは、信仰とは、について考える。

日本だとあまり宗教・信仰について明確な話題がでないが、

日本人の無意識の信仰心は強く存在していると感じる。

ただし、その信仰対象が不明瞭な場合が多い気がしている。

 

私は聖書の内容について大学生のときまでは批判的だった。

唯一神、という考え方について批判的であった。

しかし、なんとなく人以外の力は存在しているような感じはずっと小さい時から持っていた。

それは日本的に言えば八百万の神や、付喪神、みたいな、妖怪的・超人的パワーを持つ存在だと考えていた。

家族の親戚は仏教徒で、お坊さんを拝んでいたが、私は人を拝む気にはなれなくて、仏教についても懐疑的だった。

 

この感覚がもう少し明確になったのが大学生の時。

聖書を信じる友人と出会って、色々話したのがきっかけだ。その中で、自分がぼんやりとしか信仰や宗教について考えておらず、論理的に批判・懐疑、していたわけではないことを思い知った。

 

友人と話して信仰・宗教について考える、良い助けになった話題がいくつかある。

  • 宗教は文化・風習と結びついている「方法」「スタイル」「やりかた」であって、必ずしも「何を信じるか」である信仰と同じではない。つまり信仰は、文化である宗教を越えることができる
  • 私たちはどこからきて、どこへいくのか?たまたま世界や私は生まれたのか?
  • 自分の人生や選択に意味は感じたことがあるか?あるとすれば、世界や命は偶発的に発生したものではなく、何かの意図、つまり「神」「創造主」が存在したと言えるのではないか?
  • 仮に、「神」「創造主」が存在する、と仮定した場合、それは信じるに値する存在であるか?どんな性質を持っていれば、信仰対象として十分か?

これらの問いかけと、友人との議論は、私が自分の考えを深めるのにとても役に立った。

 

まず、私が聖書における唯一神「神」を嫌っていた理由は、絶大な力を持っているように描かれているが、その神が信用に値するか私には確信が持てなかったから。私が確信を持てないにもかかわらず、キリスト教では「神様はいるよ!信じるべき存在だよ!」と乱暴に断言しているように見えたから。

お坊さんに対する嫌悪感も同じだ。お坊さんは人間で、酒も飲むし、恋愛して結婚して子供を作るし、失言もする。何か専門を極めた専門家かもしれないが、人間は拝むほどの信仰対象にはなり得ないと無意識に感じていたのに、仏教では「ブッダを敬え!お坊さんを敬え!」と押し付けているように感じた。

そして宗教を持っている人は、これらの気持ち悪さに気づけない。それもなんだか気持ち悪かった。

 

自分がどこから来たか、それについては考えたことがあった。自分が生まれて来た意味もあるだろうと盲目的に信じていた。でもその確信はどこから来ているのか、じっくり考えたことがなかったことに友人の問いで気づいた。

私は、それが聖書の神であるかは知らないが、何か大きな意図が存在し、私はそれを感じて、なぜだか前向きに生きる意味を信じて生きてきたのだ。

それは八百万の神だろうか?

八百万の神だと、正直困る。性格や判断が人間すぎるからだ。人間の思考や判断は信じられないことは誰もが知っていることだ。人間的すぎる存在は「何か大きな意図」である「神」としては不適格だ。私が感じている生きる意味も、私が選んで来た道も全て、人間的な不安定さを持つ「神」の気まぐれ、ということになってしまうからだ。

 

私はそれが「神」だか「創造主」だかはわからないが、でも、何か意図を持って世界や私を作った存在がいるのだ、ということを、信じたいのだ、ということがわかった。

 

ではどんな存在であれば「神」「創造主」と言えるのだろうか。

人間を超えた存在であり、圧倒的な判断基準で物事を見ている存在。決して一部の人間にとって、また人間にとっての「良い」「悪い」判断を行わない存在。地球や自然のような完璧なものを作り上げることができる存在。(おそらくその完璧は、人間の短絡的な判断によるものではない)

 

こうしたいわゆる「仮説」のようなものを立てて、様々な宗教や信仰を見ることにした。今は聖書を読んで検証をしている。

聖書の全てに納得したわけではなく、私が全て説明できるわけではないが、聖書で描かれている「神」の特徴はこのような感じだ。

  • 世界を作った存在で在り、何か意図を持って人間や世界をつくった(つまり人は生きる意味をもつ。その意味を正しく私たちが知れなくても)
  • 人間の判断によらない公平さ・善悪判断の基準を持つ
  • 人間それぞれを相対的ではなく、絶対的基準でみる
  • 人間同士が互いの価値を量ることができないような論理を組み立てている
  • 民族、風習、文化、行動、経済力、知識力などによって人を選ばない
  • 完璧なものを作ることができる力(センス)をもつ(循環する自然の仕組み)

私は創造存在がいることを信じたい。でもそれが聖書に描かれているか、何なのか、それは誰かに「そうだ。」と乱暴に言えないのではないかと思っている。

「私の今まで直感で感じて来た「何か大きな意図」の存在も否定できない。私は世界や私が生まれた意味があることを肯定したいので、私は創造存在がいることを信じたい。そして創造存在の定義をこのように仮説している。聖書に描かれる「神」は、創造存在・信仰対象として相応しいような特徴を有していると感じる。これからも検証を続ける」

ぐらいなら言えると思う。

 

聖書について話すのではなく、

創造存在・何か大きな意図について話すのであれば、

聖書を信じない人、他の信仰を持つ人、何も信じない人、宗教を持つ人、宗教も持たない人、とも話せるはずだ。

 

もし話せないなら私の話し方や理解の仕方が足りていないのだと思う。

同窓会には行きたくない

昔の友人だった人間には会いたくない。

昔の自分がベストを尽くしてなかったかというと、そんなことは全く思わない。自分はできる限りのことを、あの時も、当時の自分なりに一生懸命で、必死だったんだと思う。自分がしてきたことに偽りはない。

でも客観的に見て無様だと思う。なんて不器用なんだろうと思う。醜いね。

 

その無様な様子を覚えている他人にあって思い出されたくない。

思い出した上でその人に湧き上がる感情を見たくない。

私は相手の感情がどうしても見える。

感情が見えると受け取ってしまって、それに引っ張られて落ち込むので、

見ないために、落ち込まないために会わない。

 

今の暮らし方、働き方は、他の人には普通は理解されないと思う。

風の噂で、大都市で起業したり、有名な企業で勤めている人も多い。さすが進学校

そんな普通の暮らしをしている人たちが、私の暮らしを見てどう思うかなんて、

想像せずともわかる。

戸惑って、「すごいね。がんばってるね。」としか言えないだろう。

このいたたまれなさ。

 

そして、なぜ、その尺度で勝手に計られなければならないのか、という腹立たしさ。

 

行けば、なるほど、と、何も説明しなくてもわかる人に会えるかもしれない。

高校の時はあんまり話さなかった人と、面白い話ができるかもしれない。

それは否定しないが、そのためにわざわざ他の何百人の痛い視線を受けながら、

時間とお金をかけて帰省するか?だれがするんだろう、そんなこと。

 

今付き合いのある人たちは、流れでたまたま出会って、流れでたまたま付き合ってるような緩さのある人たちだが、

流れのままに行きてる人たちなので、私をある尺度で理解しようとはしない。

だから一緒にいて気が楽だし、何年かぶりにあっても平気。

 

意識なんて高くなくていいよ。

低く低く、海の底のように。自意識なんてなくなってしまえば良い。

 

誰も私を覚えていなくていい。

26歳

二十歳の頃は結婚するかな、と考えて、
大学卒業する前は企業就職で都会に暮らすことを考えて、
大学院に進んで、やっぱり就職を考えた。

内定式の日、なんか違うな、何だこの気持ち悪さ、なんだこの、嘘っぽわいわらい人達、と感じて、
やりたいことをやれるところまでやる決心をした。

そして今26歳。
今年の冬に大事故にあったけど、なんでか生きてる。
仕事でひどい失敗もしたけど、なんでかまた仕事もらえてる。

経理について勉強してわからなくて、でもやるしかない。わからないなりに調べてやるしかない。
後輩との接し方で悩んで、先輩として全然ダメだってひたすら意味もなく、癖のように自虐して、
私はそんなにえらいのかと自虐して、でもまた懲りずに、もっと自分で考えろよ、とか言ってる。

そんな26歳。女。
こんな人間性で、こんな不安定で結婚なぞできない。
私は、他人の人生を背負えない。一緒には暮らせないよ。

でも、だからといって、違う働き方をするか、と、考えたら。
それはない。今の仕事が好きだ。今の生き方をかえるほど結婚したいと思わない。

生きる哲学で大事にしたいことを大事にするために、いっぱい頭使えるから良い。

鋭敏だけど、強くはないから、世間の価値で対比されると、自分の力を出せなくなる。
不特定多数の人がいる職場だなんて環境は、恐ろしい。気にしなければいいという根性論で済む話ではないのは、これまで生きてわかったか ら。
人がいるところで呼吸ができないから、人がいる場所で働くなんて、吐き気がするほど嫌い。むり、生理的に無理。私を下手に知る人がいる環境でご飯も食べたくない。

今の暮らしに、一般的に良いことなんてない。面倒だし、不安定だし、労働環境はひどいし、やりたくない仕事になると思う。もう最悪、最悪な暮らし、ってテレビでも、ニュースでも、雑誌でも、社会も、会社も、人の目も、世間話も言ってた。

でも、私は、苦じゃない。毎日、頭がぐりぐり回っていい感じ。スマートじゃないけど、考えて、朝まで起きてたりするけど。
ちゃんと考えたいこと、見ておきたいこと、忘れたくないこと、見えてるな、って、安心して暮らせる。

誰かの作った虚構に当てはめて安心して暮らせるわけ無い。
誰も知らないし、誰もやらない下手なやり方だけど、私のやりたいこと、考えること、速度でいていい、幸せ。


多分結婚したら。全部壊されちゃうよ。
その人も普通の人だから、
あの人たちみたいに壊すよ。

なんで、なんで、どうして、だからダメでしょ。っていってくる。
その口癖が私にも写ってる。気持ち悪い。
写っちゃったもんだから気持ち悪い。

本当に、私の口など死ねばいいのに。禍を話す口。
過ちを犯す手。

まだ、結婚などと、
人間がするものを、私にはできない。到底できない。

私は他人を思いやれない。
私は他人が思うようにはひとつも生きない。

神様が唯一、私の素晴らしい上司なので、神様が求めることを全力でやろう。

狂信者と何が違うかわからないけど、それを他人や世間に証明する術はないし、
する必要は、そもそもないよね。

ただ、本来の信仰は、ノルマもないし、禁則事項もないし(ルールは人間の作ったもので、神様が全能である前提では、人間が作ったものより、神様の決定な、やることが勝るはずだから)、お金もかからないはず。(進行のためにお金を必要以上に回収する組織は変だ)。

お金持ちはへんとは思わないけど
神様から預けられた才能や財産を増やすことは、変ではないけど、
神様の許しを語ってお金を集めるのは変だよね。
神様との関係は個人的な関係で、許しは神様からのみ与えられるのに。人間によって、金銭を介して与えられることが変だよね。


世界のことなんて、他人のことなんて、どうでもいいけど。どうなってもいいけど。
私は真剣に考えるけど、考えてこうどうするけども。結局それがどうなるかなんて、そのひとがどうするかなんていうのは私が決める、ことじゃないから。

私はやることをちゃんとやるだけで、
それだけでよいのに、なんでそれ以上の現象も、負えると思ってしまうのかな。性格かな。教育かな。試練かな。

まぁ、なんでもいいや

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何のままでもない

ままならない、思い通り・自由にならない。

なんでこんなことが起こるんだ、と喘いで、嘆息して、悲観する。

 

一方で「思い通りにならない。」と感じることや、「思い通りにならないことが当たり前」と慰めることは適切ではないようにも感じている。悲観的になっている自分に、勝手に設定した使命感などを感じて満足してるだけかもしれない。

「思い通りになることが望ましい、その方が良いことを生む」という前提があるから、ままならない、という言葉が出てくるのか。

ままなる、ままならない、という評価が間違っているのか。

どうもそんな気もする。

 

"なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。"

引用「新約聖書 新改訳 第一コリント 1:25」

 

自分の思い通りにならない。誰かの理想通りにならない。

と考えなくていいのかもしれない。私や彼らが人間である限り。

 

私の思いつく素晴らしい理想は、大して素晴らしくないだろうと思う。

躍起になって思い通りに実現させても、それは本当に無理なく美しい形だろうか。

私は自分が思う通りに形作ったものの醜さをよく知っている。

そして創造主が驚くべき緻密さと持続・維持可能な方法で、様々なことを成立させていることを知っている。そしてそれらは確かに確実で非の打ち所のない方法だ。

私にとっては幸せで楽しい方法ではないとしても、時間が驚くほどかかったとしても、それ以上に自分の愚かさを知っている。自分の無責任さを知っている。

 

誰かの思うままになるのであれば、創造主の思うままに。創造主の隨に。

その中で私は最善を尽くす。

 

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私を規定しない方法

具体的にどうすればできるかわからない。

わたしはこういった人間だから仕方ない。という諦めも、

私はこれができない、
と、私を規定することになる。

こんなことすらできないのか。という自責も、

私はこれをするべきである。
と私を規定することになる。

私はこれでいいのだ、という自己肯定も、

私はこれでしかない、
と規定することになる。

わたしはなにでもない、どんな状態でもない。
この世で良いも悪いもない。


私を規定することで、安心してきたのだな。
何がきっかけだったのかな。意識他会計にならないとダメだと思ったのかな。
それとも、小学校、引っ越したりした時の処世術かな。

あるがままでどのように自分の存在を許せば良いのだろう。

それがずっとわからない。
今も上手く出来ない。

深夜ずっと起きて、テレビを見続けて、頭が空っぽになるまで見て、
心が満たされる気がする。みたされないけど、ここに注目しなくていいから、
頭を麻痺させるために、徹夜してひたすら、ひたすら、

昼目が覚めたらまた仕事して、夜はひたすら、朝まで、ひたすら。

きょうはもうねよう

私である意味はないのかもしれない

悲観的な理由からではなく、
私である理由はいらない、というか、こだわらなくて良いと思った。

人間に私の価値を担保してもらうことはできない。社会的価値は、表する人間そのもののコンディション、社会のありよう、社会と私の相関関係によって、いつでもどのようにでも変わる。

でも、それに左右されないはずの、エネルギーあふれる私がいて、また、周りの人間もそのようであることを感じている。

前提として、人はそれぞれ圧倒的に違い、それぞれが100%今のある場所で役割を持っている。
量の多い少ないがあるように見えても、実際それは存在しない。各人が責任をもって、自分に与えられた役割をこなす。その人のその時の全力をかける。
圧倒的に違っているので、比べる尺度すら存在しない。
そして、はなからゆいいつ無二である。それが当たり前なので、
人間一人ひとりには、変え難い価値があるが、一方で、それは当たり前なことで特別じゃない。
という矛盾したようなことが言える、のではないか。

私だから任されている、という、選民意識は起こりえない。必然で当然であるから。私が特別なわけではなく、わたしがただ、あるがままにそれをやる。

たまたま、ではない、のもポイントだ。たまたまなんて残念な役割じゃない。私に任されるために任された。でも特別じゃない。自慢でもない。

生きることをよく考える人は、誰でも眩しく感じる。自分のあるがままを直感的に、丁寧に捉えようとする。

誰かと比べるでもなく、
ただただ、素晴らしい、と感嘆するような。美しい、と感じる。

子供のようでありながら、
ずる賢い大人の悪意に侵されないように、
聡く、強くもある。

それは、雑誌に乗ってる有名人や業界人でない、
ごく普通にスーパーですれ違うような、普通の人だ。

人間の美しさ、その創造存在に対する賛美が自然と湧き上がる。
これ以上の形がない、はまった時の震え。

おーいえー、とか
いよっ!とか、
そういった気持ちの良い賛美が湧き上がる。