etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

何のままでもない

ままならない、思い通り・自由にならない。

なんでこんなことが起こるんだ、と喘いで、嘆息して、悲観する。

 

一方で「思い通りにならない。」と感じることや、「思い通りにならないことが当たり前」と慰めることは適切ではないようにも感じている。悲観的になっている自分に、勝手に設定した使命感などを感じて満足してるだけかもしれない。

「思い通りになることが望ましい、その方が良いことを生む」という前提があるから、ままならない、という言葉が出てくるのか。

ままなる、ままならない、という評価が間違っているのか。

どうもそんな気もする。

 

"なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。"

引用「新約聖書 新改訳 第一コリント 1:25」

 

自分の思い通りにならない。誰かの理想通りにならない。

と考えなくていいのかもしれない。私や彼らが人間である限り。

 

私の思いつく素晴らしい理想は、大して素晴らしくないだろうと思う。

躍起になって思い通りに実現させても、それは本当に無理なく美しい形だろうか。

私は自分が思う通りに形作ったものの醜さをよく知っている。

そして創造主が驚くべき緻密さと持続・維持可能な方法で、様々なことを成立させていることを知っている。そしてそれらは確かに確実で非の打ち所のない方法だ。

私にとっては幸せで楽しい方法ではないとしても、時間が驚くほどかかったとしても、それ以上に自分の愚かさを知っている。自分の無責任さを知っている。

 

誰かの思うままになるのであれば、創造主の思うままに。創造主の隨に。

その中で私は最善を尽くす。

 

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私を規定しない方法

具体的にどうすればできるかわからない。

わたしはこういった人間だから仕方ない。という諦めも、

私はこれができない、
と、私を規定することになる。

こんなことすらできないのか。という自責も、

私はこれをするべきである。
と私を規定することになる。

私はこれでいいのだ、という自己肯定も、

私はこれでしかない、
と規定することになる。

わたしはなにでもない、どんな状態でもない。
この世で良いも悪いもない。


私を規定することで、安心してきたのだな。
何がきっかけだったのかな。意識他会計にならないとダメだと思ったのかな。
それとも、小学校、引っ越したりした時の処世術かな。

あるがままでどのように自分の存在を許せば良いのだろう。

それがずっとわからない。
今も上手く出来ない。

深夜ずっと起きて、テレビを見続けて、頭が空っぽになるまで見て、
心が満たされる気がする。みたされないけど、ここに注目しなくていいから、
頭を麻痺させるために、徹夜してひたすら、ひたすら、

昼目が覚めたらまた仕事して、夜はひたすら、朝まで、ひたすら。

きょうはもうねよう

私である意味はないのかもしれない

悲観的な理由からではなく、
私である理由はいらない、というか、こだわらなくて良いと思った。

人間に私の価値を担保してもらうことはできない。社会的価値は、表する人間そのもののコンディション、社会のありよう、社会と私の相関関係によって、いつでもどのようにでも変わる。

でも、それに左右されないはずの、エネルギーあふれる私がいて、また、周りの人間もそのようであることを感じている。

前提として、人はそれぞれ圧倒的に違い、それぞれが100%今のある場所で役割を持っている。
量の多い少ないがあるように見えても、実際それは存在しない。各人が責任をもって、自分に与えられた役割をこなす。その人のその時の全力をかける。
圧倒的に違っているので、比べる尺度すら存在しない。
そして、はなからゆいいつ無二である。それが当たり前なので、
人間一人ひとりには、変え難い価値があるが、一方で、それは当たり前なことで特別じゃない。
という矛盾したようなことが言える、のではないか。

私だから任されている、という、選民意識は起こりえない。必然で当然であるから。私が特別なわけではなく、わたしがただ、あるがままにそれをやる。

たまたま、ではない、のもポイントだ。たまたまなんて残念な役割じゃない。私に任されるために任された。でも特別じゃない。自慢でもない。

生きることをよく考える人は、誰でも眩しく感じる。自分のあるがままを直感的に、丁寧に捉えようとする。

誰かと比べるでもなく、
ただただ、素晴らしい、と感嘆するような。美しい、と感じる。

子供のようでありながら、
ずる賢い大人の悪意に侵されないように、
聡く、強くもある。

それは、雑誌に乗ってる有名人や業界人でない、
ごく普通にスーパーですれ違うような、普通の人だ。

人間の美しさ、その創造存在に対する賛美が自然と湧き上がる。
これ以上の形がない、はまった時の震え。

おーいえー、とか
いよっ!とか、
そういった気持ちの良い賛美が湧き上がる。

人を想うのは人の為ではない

私がその人の信仰(世界の考察)の躓きとならないためだ。

私がその人に嫌われるかもしれない。
私の評価が下がるかもしれない。
それは嫌だ。人の悪意や失望を受け取ることは、本当だったら避けたい。

しかしそれに執着すると、人による価値判断に依存することになって、自分の可愛さゆえの言動にすり変わってしまう。

人を想うのは、その人の信仰を妨げないためだ。
私の言動が、その人の、創造存在やこの世の理に考えを及ばせることの邪魔にならないためだ。

その人に好かれるか、が問題ではなく、
何がその人の気づきや、創造存在による心の癒し、恵の気づきにつながるか、
これに気を配って言動する。

結果その人に好かれることもあるかもしれない。私の力不足で歩の感情を呼び起こしたり、怖がられたりすることもあるかもしれない。

しかしそれは単なる結果であって、
確実に創造存在への気づきや、考察するようになるきっかけを、与えている。

自分の口の浅はかさを

口が私の恥を生む、
口が私を浅はかにする、
その結果不用意に人を傷つける。

私の口を呪ってしまう。
私の口がにくい。

せめて口の外からでなければ、他人を汚して傷つけることはない。
どうせ口の外に出すなら、人を勇気づけたい。

私の口が思慮深く、閉じているように。

私は隣人として何をするべきだろう

私は隣人として何をするべきだろう。

運命と呼ぶのなら

それをどの神かと定めるのか、または、神とするのか、
という点はおいておいても、

流れを定めた存在がいるということを感じているのだ。
人間や自然を超越した、力あら存在、は運命を信じる人なら、無視することは難しい。

もし偶然だというなら、
確率だというのなら、
そうだとしても、その確率によって生まれた出会いや出来事は
全く無意味で無価値だ。
どんな素晴らしい出会いも、出来事も確率のひとつであって、その確率のひとつは再現可能であり、
一つ一つは特に意味が無い、ということだ。

今、確かに感じている、感動も、情熱も、使命感も、全て無意味で、
人間の脳が、そうした事態に陥ると脳が興奮する物質を出しているだけで、
だからといってそれに意味はない。

遂行する意味もない
考える意味もない。
生きる意味もない。
生きていられるのは、確率的な問題だから。
だから死んでも別に問題はないはずだ。


でも、なぜ、死んではいけないと思うのだろう。言い換えれば、なぜ生きることを毎日選ぶのだろう。

死ぬことへの恐怖?
死ぬのが怖くて、惰性で、無意味だと感じる日々を続けられるだろうか。

死んじゃいけない。死にきれない。その時、が来るまでは、どんな自堕落で目の当て様のない生き方だとしても、結局、しのうとしても、私は生きることを掴もうとする。

本当に確率にしか過ぎない人生を、あがいてでも勝ち取る気力はあるのだろうか。

私がぶざまにも生きたいと思う、死ねないと思う、その確信は、この世は偶然ではない、運命で構成されているからだ、と言うことはできないだろうか。

私は、それを信じたい。自分の無様な生きる意地に確信を持ちたい。
だから創造存在を信じる。
そしてその創造存在の完璧なまでの合理性を信じる。また、完璧さを信じる。
最後に、その存在と、その存在のつくり出したこの世の法則や定義を、
客観的に、人間的視点によらず解説する書物を、信頼のおける資料として認めたい。

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