etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

交通事故にあった

先日交通事故にあった。

被害者の方だが、手続きや病院が煩雑で本当に、煩わしいこと限りない。

被害の受けたのはこっちで、保険が出るのは良いし、

骨折などに至らなかったのも素晴らしいことで、

車も新しくなるかもしれないが、

それ以降の手続きが本当に煩雑で、面倒だ。

それにしても結構な規模の事故で、かすり傷一つなし、

というのは、実に神様のおかげだ。

 

神様の殺意は感じなかった。

 

この出来事を通して得た知識はあるし、

面倒だけど、こうして起きないと調べる気力が湧かなかったことを調べられたから、

とても良いことだと思う。

 

信仰的に言えば、家族に神様の存在を証することになったと思う。

身を以てわかりやすい証明。

 

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独立して一年。やることが多い。全然わからない。

いろいろ調べて疲れた。だけどやるしかない。

お酒飲みたいけど、一応筋肉の損傷はあるので控える。

 

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信仰は哲学のようだと時々感じる。

 

その人が神の存在を認め、イエスの存在を必要だ、と認めることで

信仰が完全になり、神に許される。

そしてその認める作業を毎日、毎日、日々の出来事を振り返りながら、

聖書を読んで学びながら、確認を繰り返していくのが、

信仰とともにある、ということだと解釈している。

 

このことから、信仰を持って、のち、神に許される、という時間経過があるように思うが、

実際はそうではなく、

神はイエスを通じて「信仰を持っている」と全ての人を看做し、許し、恵みを授け、

その上で、各人が自発的に信仰を持つようになるのを待っている。

という状態が近いように思う。

 

なぜなら、信仰を持ったと自覚を持つ前から、

何か大きな力に導かれて、または守られて、人生を送ってきた自覚があるからだ。

その時の私は決して良い人間ではなく、

たくさん神を欺き、自分の欲求のままに、多くの人を傷つけることをした。

しかし、私はまだ生きていて、私が社会に必要とされるよう、

そうした人間関係や環境に私の身を置いてくれている。

そして、そうした恩恵が受けられるようになるための、

最大の恵みとして、

イエスが私たちに送られている。

 

本来私は死んでもおかしくないような、醜い存在でもあるにかかわらず、

私は常に何かに守られて、そしてここまで連れてきてもらったのだ。

 

イエスを通した神の許し、愛や恵は、

例えるなら社会インフラのように、日本中に世界中に、

当たり前に浸透していて、誰もがその恩恵を受けている。

それを、信仰を持った上で自発的に神とイエスを受け入れるというのは、

自分の住む家に、電球をつけ、蛇口をつけ、ガスコンロを置き、

インターネットを開設するような、そんな感覚に近いのではないか。

その恩恵が受けられるよう、また自宅にも引き込めるような資格を与えてくれているのが、イエスである。

 

ちょっとたとえ不足でもあるように感じる。

それらがないと生きていけない、と自ら認める行為、と言ったらいいだろうか。

 

疲れたのでご飯を食べねば。

 

 

 

 

 

 

 

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