etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

孤独はそんなにダメなのか

子供がいないと生涯孤独
という考え方は
賛同できない。

子供がいても家族がいても、
本質的孤独からまぬがれない。

家族や友達は、その本質的孤独を直視しないための現実逃避だ。

でもそんなことに家族や友達を利用したくない。

絶対的孤独と対峙して、
考察を続けていくことが、生きる上では絶対必要なんだ。

誰も、どんな深い仲だとしても、
完全に分かり合えない。
助けることはできない。
分かち合うこともできない。
神様だけが、私を完全に理解する。
私は神様がわからないが、
神様は消して私を落胆させないことを、裏切らないことを、知っている。

励まし会いながら、
それぞれひとりで戦い続ける、考察を深めるための議論ができる、
それが家族で友人だ。


夫はまた少し違う。
夫は妻と一つになるから。
だから互の孤独が、同じものになってそれを考察する。
ただ人間は完璧ではないので、夫婦間でも理解し合えない。

夫婦は完全に一つとなるのは、
つまり、同じ孤独を有し、同じ方向性をもって、それぞれが戦う、
時に励ましあい、二人で考察し、作戦を立てる、ようなものではないかと思う。

生まれてきた子供は、また別の存在で、全く違う孤独を抱え、それと退治しなければいけない。
孤独と向き合う準備、神様絵の出会いを助けるのが、親の役目かと思う。

ただ、
だから家族が、夫が、子供がいないと、友達がいないと孤独と退治できないわけではない。
あくまでもます個人による個人的な対峙が必要だと思う。

家族や友達、子供がいないと、生涯孤独だよ、
というのは、本質から外れているような直感がある。

本来、人間は、その社会的恐怖や誘惑を優先するべきではないと思う。
それが本質ではない。手法でしかない。
それそのものは素晴らしいが、
それは本質ではないので、そこにこだわって、それを大事にして、それを一番だと思うようになってしまうのは、
不安定で危険な状態だ。と感じる。

不安定な要因や、不安定な価値判断基準、一時的な価値、変化する価値、というのは二次的なもので

私の直感だが、一次的なものは、これに揺るがない。廃れない。ぶれない。永遠にその価値は、どんな二次要因がまとわりついたとしてもぶれない。

私は孤独を獲得した。
誰とも相容れない存在であること。
誰も負わせない。私がだけが扱えること。
また、だれも私を揺るがすことはできない。

そして私は、私以外の人を尊重する。
孤独に向き合う人達を励ます。
私が神様に許されたように、私は私以外を許す。

信仰は神秘的で華やかなものではない。哲学に近い。
泥臭く、地道に、本質を明らかにしようとしてもがく。もがく。

もがいている。そして私は一人で神様と生きている。
誰もが、一人で、でも神様とともにある。
神様によってであった人達に、
私のできることで仕える。神様が彼らを通じて助けてくれる。また私を通じて、神様が彼らを助けてくれる。

起こったことは、神様の軌跡でしかない。
その関係そのものに、社会的価値は意味がない。

私は孤独だが、満たされている。
一人だが、誰ともつながっている。