etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

私である意味はないのかもしれない

悲観的な理由からではなく、
私である理由はいらない、というか、こだわらなくて良いと思った。

人間に私の価値を担保してもらうことはできない。社会的価値は、表する人間そのもののコンディション、社会のありよう、社会と私の相関関係によって、いつでもどのようにでも変わる。

でも、それに左右されないはずの、エネルギーあふれる私がいて、また、周りの人間もそのようであることを感じている。

前提として、人はそれぞれ圧倒的に違い、それぞれが100%今のある場所で役割を持っている。
量の多い少ないがあるように見えても、実際それは存在しない。各人が責任をもって、自分に与えられた役割をこなす。その人のその時の全力をかける。
圧倒的に違っているので、比べる尺度すら存在しない。
そして、はなからゆいいつ無二である。それが当たり前なので、
人間一人ひとりには、変え難い価値があるが、一方で、それは当たり前なことで特別じゃない。
という矛盾したようなことが言える、のではないか。

私だから任されている、という、選民意識は起こりえない。必然で当然であるから。私が特別なわけではなく、わたしがただ、あるがままにそれをやる。

たまたま、ではない、のもポイントだ。たまたまなんて残念な役割じゃない。私に任されるために任された。でも特別じゃない。自慢でもない。

生きることをよく考える人は、誰でも眩しく感じる。自分のあるがままを直感的に、丁寧に捉えようとする。

誰かと比べるでもなく、
ただただ、素晴らしい、と感嘆するような。美しい、と感じる。

子供のようでありながら、
ずる賢い大人の悪意に侵されないように、
聡く、強くもある。

それは、雑誌に乗ってる有名人や業界人でない、
ごく普通にスーパーですれ違うような、普通の人だ。

人間の美しさ、その創造存在に対する賛美が自然と湧き上がる。
これ以上の形がない、はまった時の震え。

おーいえー、とか
いよっ!とか、
そういった気持ちの良い賛美が湧き上がる。