etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

神様はいるのか、宗教、信仰とは

私は現在、聖書を信じている。

日本聖書刊行会で出版されている聖書を読んで、信仰をもつ、という判断をした。

しかし、キリスト教には属していない。教会にも通わない。

教会に通って、誰かと話す、という方法が生理的に無理だからだ。

聖書に基づいた信仰を持つと自負する、様々な人とはなしてみて、

私と解釈の近い人と一緒に読みつづけている。

 

タイトル通り、神はいるのか、宗教とは、信仰とは、について考える。

日本だとあまり宗教・信仰について明確な話題がでないが、

日本人の無意識の信仰心は強く存在していると感じる。

ただし、その信仰対象が不明瞭な場合が多い気がしている。

 

私は聖書の内容について大学生のときまでは批判的だった。

唯一神、という考え方について批判的であった。

しかし、なんとなく人以外の力は存在しているような感じはずっと小さい時から持っていた。

それは日本的に言えば八百万の神や、付喪神、みたいな、妖怪的・超人的パワーを持つ存在だと考えていた。

家族の親戚は仏教徒で、お坊さんを拝んでいたが、私は人を拝む気にはなれなくて、仏教についても懐疑的だった。

 

この感覚がもう少し明確になったのが大学生の時。

聖書を信じる友人と出会って、色々話したのがきっかけだ。その中で、自分がぼんやりとしか信仰や宗教について考えておらず、論理的に批判・懐疑、していたわけではないことを思い知った。

 

友人と話して信仰・宗教について考える、良い助けになった話題がいくつかある。

  • 宗教は文化・風習と結びついている「方法」「スタイル」「やりかた」であって、必ずしも「何を信じるか」である信仰と同じではない。つまり信仰は、文化である宗教を越えることができる
  • 私たちはどこからきて、どこへいくのか?たまたま世界や私は生まれたのか?
  • 自分の人生や選択に意味は感じたことがあるか?あるとすれば、世界や命は偶発的に発生したものではなく、何かの意図、つまり「神」「創造主」が存在したと言えるのではないか?
  • 仮に、「神」「創造主」が存在する、と仮定した場合、それは信じるに値する存在であるか?どんな性質を持っていれば、信仰対象として十分か?

これらの問いかけと、友人との議論は、私が自分の考えを深めるのにとても役に立った。

 

まず、私が聖書における唯一神「神」を嫌っていた理由は、絶大な力を持っているように描かれているが、その神が信用に値するか私には確信が持てなかったから。私が確信を持てないにもかかわらず、キリスト教では「神様はいるよ!信じるべき存在だよ!」と乱暴に断言しているように見えたから。

お坊さんに対する嫌悪感も同じだ。お坊さんは人間で、酒も飲むし、恋愛して結婚して子供を作るし、失言もする。何か専門を極めた専門家かもしれないが、人間は拝むほどの信仰対象にはなり得ないと無意識に感じていたのに、仏教では「ブッダを敬え!お坊さんを敬え!」と押し付けているように感じた。

そして宗教を持っている人は、これらの気持ち悪さに気づけない。それもなんだか気持ち悪かった。

 

自分がどこから来たか、それについては考えたことがあった。自分が生まれて来た意味もあるだろうと盲目的に信じていた。でもその確信はどこから来ているのか、じっくり考えたことがなかったことに友人の問いで気づいた。

私は、それが聖書の神であるかは知らないが、何か大きな意図が存在し、私はそれを感じて、なぜだか前向きに生きる意味を信じて生きてきたのだ。

それは八百万の神だろうか?

八百万の神だと、正直困る。性格や判断が人間すぎるからだ。人間の思考や判断は信じられないことは誰もが知っていることだ。人間的すぎる存在は「何か大きな意図」である「神」としては不適格だ。私が感じている生きる意味も、私が選んで来た道も全て、人間的な不安定さを持つ「神」の気まぐれ、ということになってしまうからだ。

 

私はそれが「神」だか「創造主」だかはわからないが、でも、何か意図を持って世界や私を作った存在がいるのだ、ということを、信じたいのだ、ということがわかった。

 

ではどんな存在であれば「神」「創造主」と言えるのだろうか。

人間を超えた存在であり、圧倒的な判断基準で物事を見ている存在。決して一部の人間にとって、また人間にとっての「良い」「悪い」判断を行わない存在。地球や自然のような完璧なものを作り上げることができる存在。(おそらくその完璧は、人間の短絡的な判断によるものではない)

 

こうしたいわゆる「仮説」のようなものを立てて、様々な宗教や信仰を見ることにした。今は聖書を読んで検証をしている。

聖書の全てに納得したわけではなく、私が全て説明できるわけではないが、聖書で描かれている「神」の特徴はこのような感じだ。

  • 世界を作った存在で在り、何か意図を持って人間や世界をつくった(つまり人は生きる意味をもつ。その意味を正しく私たちが知れなくても)
  • 人間の判断によらない公平さ・善悪判断の基準を持つ
  • 人間それぞれを相対的ではなく、絶対的基準でみる
  • 人間同士が互いの価値を量ることができないような論理を組み立てている
  • 民族、風習、文化、行動、経済力、知識力などによって人を選ばない
  • 完璧なものを作ることができる力(センス)をもつ(循環する自然の仕組み)

私は創造存在がいることを信じたい。でもそれが聖書に描かれているか、何なのか、それは誰かに「そうだ。」と乱暴に言えないのではないかと思っている。

「私の今まで直感で感じて来た「何か大きな意図」の存在も否定できない。私は世界や私が生まれた意味があることを肯定したいので、私は創造存在がいることを信じたい。そして創造存在の定義をこのように仮説している。聖書に描かれる「神」は、創造存在・信仰対象として相応しいような特徴を有していると感じる。これからも検証を続ける」

ぐらいなら言えると思う。

 

聖書について話すのではなく、

創造存在・何か大きな意図について話すのであれば、

聖書を信じない人、他の信仰を持つ人、何も信じない人、宗教を持つ人、宗教も持たない人、とも話せるはずだ。

 

もし話せないなら私の話し方や理解の仕方が足りていないのだと思う。