etetentenの記録

信仰とともに暮らす日々

私がブログを書きたくなるとき 自分の愚かさを知るとき

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

 

ブログを書きたくなるときは、自分の愚かさを知るとき。

 

そんな程度ですごいことやっているつもりなのか。

と腹が立ってみても

私はその領域のプロであったとしても、

私はそれを全て知っているか?

 

ついこの前まで知らなかったこともあったじゃないか。

私より知っている人なんかたくさんいるじゃないか。

 

すぐ、誰かを批判する。

誰かの姿勢を批判する。

私にその権利はない。

嫌だな、と思う立場でもない。

 

彼も、彼女も、私と同じ学ぶ身なのだ。

私がもし彼らより知ることがあるとしたら、それはただ、教えれば良いだけで、

間違いや知識不足は彼らだけでなく私にも言えることなのだ。

彼らが間違っていることで、どうして私は彼らを批判できるのだろう。

 

 

無礼とか、言葉遣いが間違っているとか、不遜な態度とか、何でも良いじゃないか。

 

なんでここに引っかかるのかな、と考えると、

父や祖父母、父方の家族の影響だ。私がこれらのことできつく躾けられたからだ。

その躾けが間違ってたかどうか、教えられた内容は間違っていないと思うが、おしえかたは行き過ぎていたところはあったと思う。

 

私は、それができないことによって「社会に出た時に恥をかくのはお前だ。しっかりしておかないでどうする。相手にされなくなるのだぞ」と再三言われた。それができないことによって「お前はまだダメだ」ということをひたすら刷り込まれた。

実際は「お前はダメだ」ということを言いたかったのではない。実際、父の時代や、父方の家族の地域での立ち位置から、そうしなければ辛い思いをすることがたくさんあったのだ。

だからそれで傷ついたりいじめられたり、不当な扱いを受けるかもしれない私を心配して、きつく、きつく躾けられたのだ。

でも、私には、違うメッセージで刷り込まれてしまった。(意図しない内容で伝わってしまうことは、子育てに関わらず人間関係で難しいことだと思う。)

だから、父や父方の家族にきつく言われ続けてきた「ダメなこと、やっちゃいけないこと」をしている他人を見ると

「それは違うだろ。それをしちゃダメだろ。そんなことで良いと思ってるのか。甘えるな」という気持ちになってくるのだ。

でも、ほんとは、私がそれが好きなら守ればよくて、他人に守らせることではないのだ。

彼らは違う育ち方をした。私の家庭は厳しかった。でもだからといって、私の方が優れている、という訳でもないのだ。相手が可哀想な人でもないし、私が頭がおかしい人なのでもない。

 

私は何でも良いのだ。彼らも何でも良いのだ。

私が彼らと話すことができる共通の言語や認識、価値観を持つこと。

もしあるとしたら、私個人でしてほしいこと、してほしくないことを彼らに頼むこと、会話をすることだ。

「あいつらわかってないのか。」と怒ることはちっとも必要ないはずなんだ。